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中堅弁護士のエッセイ

合格発表の思い出(青木寛文)
2011-09-09
合格発表の思い出
青  木  寛  文
 9月8日に平成23年度の司法試験の合格発表が行われたというニュースに接しました。毎年,司法試験の合格発表はニュースになりますが,このニュースに接するたびに,司法試験で6回の合格発表を経験した私は,ほろ苦いというか何というか形容しがたい,何とも言えない感覚になります(同時に,「ああ,夏が過ぎて,秋が来たなあ。」という感覚にもなりますが・・・)。
 ところで,司法試験の他にも,私は,中学受験,高校受験,大学受験でも合格発表を体験していますが,それぞれに,良きにつけ,悪しきにつけ,思い出があります。
 東京の私立中学のような苛烈な試験ではなく,それ専用の勉強など一切したことのない,非常に牧歌的な受験でしたが,私は一応中学受験も経験しています。これは,親がくじ引きを引いて,そのくじで合否が決まるという仕組みでしたので,合格発表は親からもたらされました。自分の「引き」で子の合否が決まるということで,親としては非常なプレッシャーがあったようで,くじを引き終えた親が,非常に興奮して「合格したぞ!」と言って帰ってきたことを鮮明に覚えています。そんな親の気持ちなど子は知らず,という感じで,私自身は「へえ〜,よかった,よかった。」程度の割と冷めた感覚でしたが,このときの親の感覚は今はものすごくよく分かります。
 高校受験の合格発表は,テレビで見ました。長野県は高校入試に対する県民一般の関心が極めて高いこともあると思うのですが,当時は,「高校入試合格発表速報」とかいう番組を,確か長野放送で放映しており,プライバシー保護に神経質な今日ではちょっと考えがたいのですが,名前が書いてある合格者名簿をテレビで流していました(当日の夕刊でも名簿がそのまま出ていました)。高校入試では,当時の自分の力を出し切れなかったという感じがあり,不合格ではないかと本気で思っていたので,高校の掲示板に合格発表を見に行く勇気がなく,テレビでお茶を濁したのです。このときは,自分の名前が目に入った瞬間「ああ,よかった。」というほっとした感覚でした。その日の午後,合格した人は卒業したばかりの中学のクラスに集合となっていた(当時は中学の卒業式の翌日が高校合格発表でした)ので登校したのですが,そのときにクラスメートと対面してお互い「よかったなあ。」と話して握手をしたときに改めて喜びが湧いてきたという記憶です。
 大学入試は,前にもコラムに書いたように,私は2浪しているのですが,2浪目は11の学部・学科を受験し,発表の形態も,郵送あり,掲示板あり,電報ありと様々でした。一番最初の合格発表は郵便でしたが,ここで合格していることがわかったときは,今まで全ての大学入試で落ち続けてきていて「本当は合格者なんていないんでは?」などと自分の力不足を棚に上げて勝手に疑心暗鬼になっていた私は,「大学入試でも合格者は本当にいるんだな。」と実感し,今まで勝手に失っていた大学入試に対する信頼が回復されたような感じで,本当に嬉しかったことを覚えています。
 実際に通うことになった学部の合格発表は,同じ大学の別の学部の合格発表と同じ日に行われ,この発表は両学部とも大学の掲示板まで実際に見に行きました。最初にどちらから見ようか迷ったのですが,志望順位も低い一方で,受験後の感覚としてもそんなに手応えがあった訳ではないA学部の合格発表から見に行くことにしました。そこの発表は番号が載っているだけで名前は載っておらず,心の中で「○○○○番,○○○○番・・・・・・」と自分の受験番号を心の中で唱えながら番号を追っていくと,果たして,その番号が目に入りました。その時は,「嬉しい」とか「やった!」という言葉が浮かぶ前に,体が勝手にガッツポーズをしていたのを覚えています。まさに反射的という感じでした。その結果を受けて,志望順位も高く,手応えもA学部より遙かに高かったB学部の発表を意気揚々と見に行きました。当然受かっているでしょ,という感じで「21215番,21215番・・・」とやはり自分の受験番号を心の中で唱えながら番号を追っていくと,「21255番」はあったのですが,「21215番」はありませんでした。何かの間違いではないかと考え,掲示板を見直しましたが,やはり「21215番」はありませんでした。
 帰り道は,当局が21215番と書くべきところを誤って21255番と書いてしまったのではないかなどと,腑に落ちないという感じで帰路に就き,A学部の合格という嬉しいはずの結果などすっかり色あせて,憮然とした(ここでの「憮然」は,最近誤用されている方の意味と,本来的な意味両方があてはまります)感覚でした。帰ってから,家族には「B学部は駄目だったけど,A学部は受かっていた。」と電話(当時は携帯電話などありませんでした。)で報告したのですが,家族は非常に喜んでくれて,B学部の不合格など全く問題ないという感じでしたので,その反応に救われた感じがしました。
 それから1週間後くらいに第1志望校の合格発表があり,これも現場まで見に行きましたが,この学校はアイウエオ順で受験番号が決まっていて,「青木」である私は最初の方の番号だったので,あっさり名前がないことが判明し,あっさりした気持ちで戻ってきたという記憶ですが,合格発表のインパクトとしてはこれまでお話しした3つの方が思い出に残っています。
 こうして,私は先述したA学部に入学し,卒業もしたのですが,こういう合格発表の思い出のせいか,A学部については,自分を拾ってくれた学部という感じで感謝する一方で,B学部についてはいろいろ感じるところがあります。今の職業的にはB学部の方が縁があり,「寄付のお願い」が来たりしますが,「そう簡単には応じられませんね。」と言う感じで冷淡な対応に終始している今日この頃です。まあ,私などが寄付しなくても痛くもかゆくもないでしょうし,そもそもB学部に合格していたとしてもおいそれと寄付に応じるかは怪しいですので,「これ幸い」という感じのエクスキューズに過ぎないのですが・・・・・。
三四郎さんとの対談(有吉美知子)
2011-07-03
「三四郎さんとの対談」
有吉美知子
先日、朝日新聞オレンジリボン運動キャンペーン企画で、三四郎さんと子どもの虐待問題について対談がありました。三四郎さんとは初対面だったのですが、テレビなどでご確約のとおり、最初からとてもフレンドリーかつエネルギッシュで、予定の1時間を超えて、話しがはずみました。
 応接用の椅子にエル字型に腰掛け話を始めたのですが、三四郎さんは子育ての話を熱く語り、話しているうち、どんどん前に前に移動してきて、しまいには三四郎さんが椅子から落ちてしまうのではないのか心配しました。
 三四郎さんが法学部出身であることもともて親近感がありました。
 三四郎さんとの対談の内容で特に印象に残っていた話は、中学校で生徒、保護者に講演をしたときのお話です。2年生の生徒たちがだんだん聞いている態度が悪くなり、いつか先生が生徒たちに注意してくれるだろう、いつか保護者のひとりが我が子にカツカツと近づいていき、「何しているの、人の話をちゃんと聞きなさい」としかってくれると思っていたけれど、誰も注意せず、しまいに我慢できなくなって、檀上から生徒たちに注意をしたという内容です。
 いつの日から、大人たちは子どもをきちんと叱らなくなったのでしょう。親子や大人と子供の関係が、みんな優しい関係になってしまい、叱ってぶつかりあうことを避けるようになってしまうことは寂しいことですねと三四郎さんと共感しました。
 三四郎さんは最後に松本少年刑務所で少年たちに「がんばって立ち直れ」という思いを込めてコンサートをするのが夢ですと熱く語っていました。
是非実現して欲しいです。
パールの遊び(河嶋恒平)
2011-06-29
パールの遊び
                                                                        河嶋恒平
 
  パールという名前をつけたスタンダードプードル犬と、今から4年前に私たちが生後50日でお母さん犬のところから引き取ってきたときから、一緒に暮らしている。
  パールというのは、20年以上愛読しているロバート・B・パーカーという小説家の私立探偵スペンサーシリーズ(今年シリーズ39作目が出版されたが、遺稿となってしまった)で真の主役を演じているチョコレート色のジャーマン・ショートヘアード・ポインター犬の名前で(39作目では三代目パールがうろちょろする)、いつか犬を飼うことがあったらパールという名前がいい、とずっと思っていた。私たちのパールは、体高が65センチ、体重が22キロ、漆黒の体毛で胸に白い十字のすじがある。
  パールがきて1年くらい経った頃の初夏の早朝に、パールを連れて家の裏山の小道に散歩に行った。
  やっと軽自動車が通れるくらいの幅の、かつては砂利道だったものの砂利のほとんどは雨で流されて雑草がはびこりだしたような小道で、両側には、すでにクマ笹の新芽がびっしりと生えそろい、カラ松とクルミの木が林立している。カラ松は、ちょうど芽吹きが終わったところで、その新芽とクマ笹の若草色の間にカラ松の樹皮のこげ茶色が見える。
  ふだんはきちんとリードを付けているのだが、そのときは、まわりに何かいる気配がなかったので、油断してパールのリードをはずし、ヒールをさせ、山の静けさとひんやりした感覚を楽しみながら、のんびりと歩いていた。遠くでホトトギスが飛びながら鳴いていた。
  それは私にとって失敗だったが、今思えば、パールにとってチャンスはこの1回だけだった。
  突然、ドドッ、ドドッという重い足音がして、中型でごげ茶色のメスのニホンジカが3頭、右の山側からさっと飛び出してきて、私たちから5メートルくらい前方の小道を横切って、左の谷側に走って降りていった。
  私もパールも目を見開いて5秒ほど凍り付いてじっとしていたが、すぐにパールが激しく喜びだして尻尾を振り、シカたちの後を追って全速力で走っていってしまった。私はあわてて、ストップだのステイだのノーだのコラッだのパールだのオイデだのカムだの、いろいろと叫んだが、パールは興奮すると他人の言うことが耳に入らなくなってしまうたちだから、当然私の叫びは耳に入っていない。
  すぐにシカたちの姿は見えなくなり、それを追いかけているパールも見えなくなってしまった。シカたちとパールがクマ笹をかき分けるザワザワという音も、しばらくしてまったく聞こえなくなり、あたりは静かな小道に戻った。
  しばらく途方に暮れていると、聞こえなくなっていたザワザワという音が再び始まり、今度は左側からシカたちが姿を現し、私の10メートルくらい前方を横切って、右側に走っていった。すると、その5メートル後方を、パールが、嬉々とした表情で走ってついてきて、そのままシカたちに続いて右側に走っていった。背の高いクマ笹のなかをピョンピョン飛び跳ねながら走っているので、まるで緑色の波立つ海を泳ぐ黒いイルカのようだ。
  そのうち、シカたちもパールも見えなくなり、再びザワザワも聞こえなくなった。パールもシカたちも鳴き声ひとつあげない。
  パールがシカに飛びかかり、シカの後ろ足で激しく蹴られて致命傷を負う場面を想像した。そうではなくても、迷子になって野イバラにからまって動けなくなったパールを想像した。どちらも汗が出てくる。
  泣きそうになっていると、右側から再びザワザワの音が聞こえてきて、すぐにシカたちが現れ、今度は私の10メートルくらい後方を谷側に横切っていった。そして、またもや、その5メートル後方を、パールが嬉々とした表情で、飛び跳ねながら、ついて走って行く。
  パールとシカたちとの距離はさっきから縮まっても離れてもいない。
  ワオ。
  やっと気が付いた。
  なんと。シカたちは、パールに追いつかれるか追いつかれないかの速さで、わざとゆっくり走っている。パールはシカに遊んでもらっているのか。そもそもシカは遊ぶのか。
  そして、またしても、3頭と1頭の姿が消えて、音も聞こえなくなった。
  それからは何も起きなくなってしまった。
  5分くらい耳を澄ましていて何も聞こえず、迷子になったパールを探すのは大変だな、と思っていたとき、トボトボとパールだけが現れて、最初にクマ笹のなかに入っていった地点に戻ってきた。きっと、シカたちのほうで遊びに飽きて、本気で走っていってしまったのだろう。
  それまでに私はパールが走り出した出発点から30メートルほど歩き回っていたらしく、パールを呼ぶと、その30メートルを疾走して戻ってきたが、パールは私が初めて見る生き生きとした目をしていて、口角が上がって笑っているようだ。
  私は、パールを抱きしめ、リードを付け、理解しそうにはないとは思ったが今後は勝手にシカと遊んではならないことをきっぱりと告げ、その日の散歩を続けた。
  そんなことがあってからは、犬にとって野生のシカに遊んでもらうのはとても貴重な経験だなと思ったりするものの、パールにはしっかりとリードを付け、周囲の気配に注意しながら散歩をするようになった。
  今でも、月に少なくとも2、3回はシカと出会うことがあるが、そんなときパールは、首を伸ばし、鼻をヒクヒクさせて追いかけようとしてから(もちろん私の方はパールを必死で押さえていなければならないが)、シカが立ち去ったあとで、シカがいたあたりのにおいを心ゆくまで楽しんでいる。
  そんなとき、彼女の網膜と鼻孔の奥にはあのときの記憶がよみがえっていて、夜にはシカと遊ぶ夢をみているに違いない。
                                                                    おしまい
 
偶然( 山崎勝巳)
2011-06-24
偶然
                                                        山 崎 勝 巳
  
  仕事をしていると,偶然があります。
  例えば,かなり昔の話ですが,ある事件(甲事件とします)を受けて,しばらくすると全く別の事件の相談があり,話が進むと,実はその方の別れた旦那さんの親族が甲事件の相手方だったというようなことがありました。
  事件としては全く関係が無いため,相談者の方もその当時は全く関係がないため,そのことについて話をすることはありませんが,ほぼ同じ時期に重なるというのも不思議なものだなあと感じます。
 
  ある時は,元同僚のA弁護士と食堂に一緒に入って話をしていると,A弁護士の隣の人が先ほどからこちらを見ているので,私もその人を見ると,何と研修所の同じクラスの人でした。
  さらに,その数か月後,ある事件で依頼者が勤務していた会社の顧問弁護士が私から事件に関する話を聞きたいという話があり,お会いしてみると,その顧問弁護士は満面の笑みでやけに親しげに話しかけてきます。はて,どこかで会ったっけと思うと,その研修所の同じクラスの人と一緒に食事をしていた方でした。つまり,そのとき私の隣に座っていた方でした。
 
  つい先日も,東京の品川で,元同僚のA弁護士と一緒に道に迷っているときでした。
  サラリーマン風の男性2人が向こうから歩いてくるので,「この辺に〜という喫茶店はありませんか。」と道を尋ねると,突然その人が,私はあなたの友達かもしれませんと言うので,「???」となっていると,大学のクラスの同級生でした。広い東京で偶然道を尋ねた相手が大学のクラスの同級生とは。
  お互いに名前は忘れていましたが,思わぬ偶然に大笑いをしながら,名刺交換をして別れました。
  本当に偶然ってあるんだなあとA弁護士と話をしていた帰りの新幹線では,私とA弁護士の元同僚であるI弁護士がぐうぐう寝ていました。おまけのような偶然にこれまた大爆笑。
 
  偶然は単なる偶然ですが,たまに生活に刺激を与えてくれるスパイスみたいで,おもしろいものですね。
わたしのいちばん(織 英子)
2011-06-20

わたしのいちばん

                                                        織 英子(おり えいこ)

 弁護士の登場する映画が好きです。活躍しなくてもかまいません。世間の人が弁護士に何を期待しているのか知ることができ、初心に帰ることができます。
 比較的有名な映画をいくつか紹介します(ネタばれあり)。

1 チェンジ・リング
 (あらすじ)
  1928年のロサンゼルス。クリスティンの9歳の息子、ウォルターが姿を消す。5ヵ月後、警察によって保護され再会した息子は全くの別人だった。警察にそのことを主張すると、彼女は「精神異常者」として精神病院に収容されてしまう。支援者らに助けだされたクリスティンは息子の行方を探して、腐敗した警察組織を相手に不屈の戦いを続ける。
  ラスト、クリスティンは背筋の凍る犯罪の被害者となったウォルターの最後を突き止め、勇気ある息子の行動を知る。

 (好きなシーン)
  弁護士が令状を手に精神病院に乗り込み「君たちは私の依頼者に何をしたのだ!」と叫んでクリスティンの身柄を解放させる場面。その後、助けだされたクリスティンに弁護士が「あなたほど力強く真実を求め、行動する人を私は知りません」と語り、代理人に就任する場面。

2 ゆれる
 (あらすじ)
  東京で売れっ子カメラマンとして活躍する弟・猛と地元のガソリンスタンドで働く兄・稔は、幼馴染の智恵子と3人でドライブへ行き、吊り橋のかかった渓谷へ遊びに行くが、その吊り橋から智恵子が転落して死亡する。その場に居合わせたのは兄・稔一人だけだった。その後の警察の取り調べに対し、殺人を自白し、逮捕された稔だが、猛は兄の無実を立証するため弁護士を依頼した。

 (印象に残ったシーン)
  裁判が進むにつれ兄をかばう猛の心はゆれ、そして証言台に立ち最後に選択した行為は、兄を殺人犯と断定する証言だった。虚偽の証言をする弟を見る兄の達観したような安堵の表情。無実の罪で服役し、出所した後の兄の歩き方、背中が印象に残る。

3 ヒマラヤ杉に降る雪
 (あらすじ)
  1954年、ワシントン州サン・ピエドロ島。漁師のカールが水死体で発見され、状況証拠から日系ニ世のカズオ・ミヤモトが第一級殺人の容疑で逮捕される。やがて裁判が始まり、カズオは必死に無罪を訴えるが、陪審員の目には、カズオの顔は、過去の戦争で自分たちを苦しめた、憎い“日本人”としてしか写らなかった。日系人に対する差別と偏見が渦巻く法廷で、カズオは孤立していった。
  ヒマラヤ杉にしんしんと雪が降る冷たさと対照的に法廷では熱気あるやりとりが続く。
  ラスト、カズオの妻ハツエの昔の恋人だった地元新聞の記者イシュマエルが事件を追い続け、真実にたどり着く。

 (好きなシーン)
  露骨な人種差別主義者の検察官に対し、良心的アメリカ人である判事が法廷で行う訴訟指揮。また、老獪な白人弁護士が陪審員にアメリカの自由と正義について語りかける場面。

4 おまけ
    弁護士が頼れるのは法と法技術だけです。権力と対峙するには、頼りない武器ですが、常に刃を研いでおきたいものです。
    そこで、技術向上に役立つ一冊。
    「最終弁論 歴史的裁判の勝訴を決めた説得術」(ランダムハウス講談社)
                                                                          以 上
 

当番弁護士奮闘記(?松寿美枝)
2011-05-11
当番弁護士奮闘記
?松寿美枝

私は、イソ弁時代の6年間を東京で過ごしました。
私が所属していた東京弁護士会は、会員が非常に多かったため、当番弁護士(注:警察に逮捕された人やその家族などが、弁護士会に直接連絡するか、または警察や裁判所を通じて弁護士会に連絡すると、その日の当番の弁護士が面会に行くという制度です)は、通常、数か月に1度しか回ってきませんでした。しかし、私が勤務していた法律事務所は20名を超える先輩弁護士がおり、みな弁護士業務に弁護士会活動にと忙しかったため、「当番を交代して」という依頼が相次ぎ、人に頼まれると断れない性格の私は、自分がどんなに忙しくても受け入れてきました。その結果、頻繁に当番が回ってきて、多い時には3日連続で出動ということもありました。おかげで、東京都内のほとんどの警察署を制覇したのではないかと思います。
逮捕された方が外国人の場合には、弁護士会から当番弁護士の依頼が来る際に通訳さんの連絡先も教えてもらい、自分で連絡をとって、警察署で落ち合う時間などを確認することになります。ある時、2日連続で当番弁護士の出動があった日の通訳さん(男性)から、「昨夜は妻がお世話になりました」と挨拶されました。一体何のことかと尋ねてみると、前日に一緒に面会に行って頂いた通訳さんが奥様であったとのこと。そのご主人の通訳さんからは、「2日続けて夫婦でお世話になるなんて、先生は“当番”じゃなくて、“常勤“なんですね」と冗談を言われたこともありました。
当番弁護士の経験の中で一番印象に残っているのは、弁護士登録から半年ほど経った頃に要請のあった八丈島警察への出動です。八丈島も東京都内ですから、東京の弁護士会が担当するわけです。
担当日の午後3時過ぎ、弁護士会から連絡が入りました。電話で突然「先生、明日は空いていますか」と尋ねられ、手帳を見たところ何の予定も入っていなかったため「はい」と答えたところ、「明日、八丈島に行けますか」と聞かれました。そして、「今日の当番になっている方に順番で電話をかけているのですが、皆に断られました。先生はまだ新人なので後回しにしていましたが、最後の1人になってしまいました」と言われました。一瞬迷ったものの、頼まれたら断れない私は、思わず「行かせて頂きます」と答えたのです。電話を切った後、「八丈島にはどうやっていくのか?」とあたふたしていたところ、今度は、刑事弁護委員の先生から電話が来て、離島への当番弁護士の派遣は初めてなので、交通費の支給や法律扶助で受任した場合どうするのか等を議論中とのことでした。その結果、「安心して受任してきて下さい」との連絡が入り、八丈島行きが決まりました。
翌日、私は、生まれて初めて飛行機というものに乗りました。八丈島空港に着くなり、タクシーを拾って、八丈島警察署に向かいました。警察署に到着し、正面玄関から入ると、突然、警察官から「おー、遠いところから良く来たな」などと労われました。戸惑っていると、逮捕された方の彼女が、東京より更に遠方の地から来る予定であったらしく、まだ20代の若々しかった私はその彼女に間違われたようでした。私が「昨日連絡を入れた東京の弁護士です」と答えると、「本当に来たんですか?」と大騒ぎになりました。その際、今まで弁護士が面会に来たことはないとも聞かされました。
その後、逮捕された方と面会し、法律扶助を利用して受任することになりましたが、話を聞くと、彼は、執行猶予中に今回の傷害事件を起こしてしまったとのことで、心の底から後悔していました。「ガラス越しにいるこの人を何とか助けたい」という使命感とともに、他方で、イソ弁の身で何度も八丈島に来ることは不可能なので、今日で全て決着してやろうと決意しました。
その後、本当に遠方から到着した本物の“彼女”と接触し、彼女の運転する車で島内を周り、一緒に被害者を探し出し、その日のうちに示談を成立させました。示談金に関しては、被疑者の勤務先のオーナーに会い、逮捕後未払いになっている給料から支払って頂くことになりました。さらに、被疑者の住まいの大家さんとも会い、身元引受人になって頂きました。
事件としては、後日、被疑者が警視庁本庁に移送されてきたので、その後八丈島まで面会に行くことはありませんでしたが、意見書を作成し、郵送で取り交わした示談書と身元引受書等を携えて担当検察官のところに足を運びました。結果として、前刑の執行猶予が取り消されることもなく、事なきを得ました。
この八丈島への当番弁護士派遣は、新米弁護士だった私にとって、本当に貴重な体験となりました。余談ですが、八丈島に行く前には、島で新鮮な海の幸を食べようと考えていたのですが、結局、島で口にしたものは、最終便の搭乗前に空港で飲んだ「八丈牛乳」だけでした。

「デュオ・クロムランク」(諏訪雅顕)
2011-04-25
「デュオ・クロムランク」
諏訪雅顕
 
 デュオ・クロムランク(DUO CROMMELYNCK)という夫妻のピアニストを知っているだろうか。
 偶々入手した大分芸術会館での室内楽コンサート(平成6年開催)におけるサイン色紙に、マルタ・アルゲリッチやミッシャ・マイスキーと共に、彼らのサインも併記されていて、私は初めてこのデュオのピアニストを知ることになった。しかしながら、彼らはこのコンサートの5ヶ月後に、共に生命を断つことになる。
 デュオ・クロムランクは、ベルギー人である夫パトリック・クロムランクと、その妻桑田妙子の四手の連弾を行うピアニストである。パトリックは1945年生まれ。ブリュッセル王位音楽院でステファン・アスケナーゼに学び、その後、モスクワ・チャイコフスキー音楽院、ウィーン国立アカデミーで学んだ。桑田妙子は1947年広島生まれ。桐朋学園で安川加寿子等に師事し、その後ウィーン国立アカデミーで学んだ。2人は、ウィーン国立アカデミー(ディーター・ウェーバンが2人の師)で知り合い、1974年頃から2人で連弾のピアノを始めるようになる。その活動は、ヨーロッパからアメリカに及び、有名なブラームスやドボルザークの連弾舞曲集はもとよりモーツァルト、シューベルト、そしてフランス近代といったデュオの録音を次々と発表するようになる。それだけでなくブラームスの1番・4番、ドボルザークの9番、チャイコスキーの6番等のシンフォニーのピアノ連弾版といった大曲も手中に収めていく。
 2人の演奏の特徴は、音の統合(均質)と純化にある。彼らは言う。「4手の場合は、2台と違って、お互いが張り合うのではなく、弦楽四重奏のように完全に解け合わなければならない」。4手の場合においても、2人のピアニストの個性がぶつかり合うことは多い。そういった演奏にエキサイトすることもあるが、彼らの場合は本当に一体そのもの。強弱もテンポの揺らし方もぴったり合っている。あたかも1人のピアニストが4本の手で弾いているかの錯覚に陥る程である。
 この純化と統合は極めて美しい音楽を作っている。夫婦の強い愛情や結び付きがあって、その一体性や連帯感が生まれていると思うが、デュオをするという音楽でのつながりが、より一層の統合や純化(まさに溶け込んで1つになること)をより高めているようにさえ思われる。2人が演奏する写真が沢山CDの解説に挿入されているが、妻妙子の方が常に夫パトリックに頭を傾けて寄り添うように弾いており、本当に微笑ましい。
 しかし、夫婦というものが余りに一体化しようとすると、逆に息苦しさが生じ、破綻に向かうのではないだろうか。何故なら、夫婦と言っても、本来は他人であり、人格も性格も思想も元々は全く異なるのだから。純化や統合をするということは結局は、自己の主張を押さえて妥協することに他ならないからである。
 この夫婦の間に何があったかは分からない。1994年7月、20年以上もデュオのピアノ演奏を磨き続けてきた2人に微妙な心のズレが生じ、夫パトリックがベルギーの自宅で自殺(その原因は夫婦関係の亀裂と言われているが)、これを発見した妻妙子も後を追うように自殺した。
 彼らの友人のプロデューサー福田稔氏に語った話の中に次のようなものがある。福田氏の「どうして子供を作らないの」という質問に対し、2人は「私たちはプロのアーティストで、お呼びがかかったら世界中どこにでも行かなければなりません。そのためには子供はいない方が良いのです。また、音楽学校の先生になれば、1つの場所に落ち着いて生活できるでしょう、と言ってくれる人もいますが、実収入があると音楽に対する真剣さが鈍るおそれがあるので、私たちはその道も選べません。でも、本当は2人とも子供は大好きなのですが…」。
 もし2人に子供がいれば、この純化された音楽はきっと微妙に破綻したかもしれない。何故なら、子育ては、夫婦の個性のぶつかり合いであり、互いに妥協などとは言っていられないからである。しかしながら、彼らがその純化を一旦壊してしまえば、きっと、今まで築き上げた演奏形式を抜け出し、更なる芸術性の極みにまで達したのではないかと思われる。生き抜いて、もっともっと素晴らしい音楽を聴かせて欲しかったと思うのである。
 彼らが最後に録音したのがシューベルトの演奏。ここで聞くロンド(D951)や幻想曲(D940)は、シューベルトが生涯最後の年に残した曲であり、そのメランコリックな中に流れて行く清らかさや温かさは、比類稀なものであるが、彼らの演奏も清らかさや優しさ(そして時折現れる逞しさ)は随一のものであり、深く深く心の中に入り込んでくる。シューベルトは魔物であり、幾多の演奏家たちを死の淵に引きずり込み、あるいは引きずりこもうとしてきたが(これは、フリードヒ・グルダの語りからも分かる)、結局この夫妻も死の底へ導いてしまった。
 本当は、音楽に多くの語りは必要ない。そこにある演奏にただ身を置いて、その美しさに共鳴するだけである。そして心は安定と平穏を獲得する。その中で、いつの間にか悲しみの深い底に連れて行かれるような音楽があることを忘れてしまう。彼らの演奏を聴くにつけ、涙が止まらなくなる(そういった感性を呼び戻される)音楽があることを改めて知るのである。
 
 
※ この原稿を書いた後に、東日本大震災があり、日々深刻となる甚大な被害の実情や人知を超えた原発の暴走を目の当たりにしてきました。日本は、大きな絶望の中に叩き込まれてしまった感じで、胸が締め付けられます。でも、音楽のもう一つの大きな力は、人々を連帯させ、そして限りない勇気を与えてくれることにあります(KANの「愛は勝つ」!!!)。指揮者の佐渡裕氏は言います。「3月11日 東日本を大きな地震と巨大な津波が襲ったその日、私は予定していたコンサートが急遽中止になりました。その夜、テレビに映し出される悲惨な光景を目の当たりにした時、ただ涙するだけで何もできない無力な自分に茫然としていました。しかし、世界各国の音楽の仲間たちから激励が届くにつれ、『音楽』の持つ偉大な力にあらためて気付きました。一人ひとりの声、一つひとつの音が、重なって、そしてつながっていく。今、音楽にできることを、心をこめて発信していきたいと思います。」 私自身も、無限の力を秘めた「音楽」が、少しでも、被災された大勢の方々の心の慰めになって欲しいと思います。
過払金バブル終焉後(小林 正)
2011-04-19
過 払 金 バ ブ ル 終 焉 後
 小  林    正
 
過払金返還請求訴訟が全国の地裁事件約24万件の内約14万件を占めるとの異常事態も昨年秋から減少傾向に転じたと言われており、来年にはいわゆる過払金バブルも終焉を迎えようとしております。平成8年に初めて過払金返還請求訴訟を手がけ、その後15年間にわたり地道にやってきた身としては感慨ひとしおのものがあります。
この過払バブルが近時の弁護士人口の急増を実質的に支えてきたものと思いますが、過払金返還請求事件なき後の弁護士の行方を考えざるを得ません。
残業代の請求が第2の過払いとの見方もあるようで、事実最近この種の事件が増えているとの情報にも接しますが、私は余り大きな期待を持てないと思っております。何故なら、残業代請求訴訟は、会社を止めてからでないと中々踏み切れないことから誰でもできることではありませんし、2年間の消滅時効の壁もあるからです。
また、このことは余り知られていないと思いますが、本来賃料や退職金の請求権には、先取特権の保護が与えられておりますから、訴訟が不要なのです。私はロースクールの教員として民事執行法を教えていた数年前に気付き、退職金請求を受任した折に、直ちに会社の財産を差押えましたが、買い戻す資力のない会社は業務遂行不能に陥り、10日余りで廃業したとの経験があります。この知識が一般化すれば、地方の零細企業はバタバタと倒産することになるのかも知れません。
私は、本命は、交通事故だと思います。交通事故の負傷者は年間100万人と言われていますが、現在損保会社の手によって、殆ど処理をされています。自賠責の支払基準は裁判基準(裁判をした場合に支払われる損害金)の7割、保険会社が支払う任意保険金は裁判基準の約8割と俗に言われております。すなわち、現在日本では裁判をしないと正当なる保障を受けられないのです。死亡事故や重大な後遺障害が残る事故では特に裁判の持つ意味はかなり大きなものです。最近、既往疾患が争われた事件で、保険会社の後遺障害認定が14級の事件を受任し、地裁で7級、高裁で3級の認定を受けた事件を経験し、その思いを深くしました。
保険会社の代理人をしている弁護士に対し、何故保険会社は保障額無制限の保険であっても、裁判基準に則した支払をしないのかと聞いたことがありますが、その答えは、そんなことをしたら保険会社はやって行けないので、保険料を上げざるを得なくなってしまうとの回答を得たことがありました。通常、市民は無制限の保険に入っていれば、被害者に生じた全部の損害がカバーされていると信じているのではないのでしょうか。その信頼に答えるためには、適正なる保険料をとるようにして解決すべき問題であり、今の保険会社は極めて姑息な対応をしていると言わざるを得ません。
もっとも、保険会社が今までの姿勢を改めてしまえば、我々弁護士の貴重な収入源がなくなってしまうから、そのようなことは伏せておいた方が良いのかも知れません。そのような忠告を受けたこともあります。
しかし、弁護士の使命は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することです。そのために法律制度の改善に努力することが弁護士法1条で義務づけられているのです。弁護士が貸金業規制法の改正に努力した当時、消費者金融業界はこのグレーゾーン金利が弁護士の飯のたねであるから、弁護士が真剣にその改正運動をする筈がないとタカをくくっていたようです。しかし、この改正運動は身を結び、グレーゾーン金利は廃止になりました。正に弁護士がその志を全うした結果であります。
現在の保険会社の対応は、残された大きなグレーゾーンであり、殆どの交通事故が裁判所に持ち込まれるようになれば、保険会社もその対応を抜本的に変えざるを得なくなる筈ですし、弁護士としての業務対策にもなり、弁護士にとっても一石二鳥です。
 ただ、幾ら弁護士が裁判をしたくても依頼がなくてはできない訳です。弁護士会でこの点をアピールすべきだと思います。市民の方からすれば、弁護士費用のことを心配する向きもあるかと思いますが、交通事故の弁護士費用は請求額の一割程度が別途認められた上、示談では認められない事故の日からの5%の利息も加算されますから、ご心配には及びません。また、保険会社の代理人(形式的には加害者の代理人)も弁護士ですから、裁判基準自体を争い、無用な抵抗をすることはありませんので、裁判になると大変だと思う必要はありません。
「交通事故に遭ったら裁判をしよう。」を新しい標語にしましょう。
好みの変化(永井真介)
2011-04-11
好みの変化
永井真介
 大学生のときは,よく漫画を読んだ。喫茶店には漫画週刊誌が必ずといっていいほど置いてあったから,数種類の漫画週刊誌は,毎週欠かさず読んでいた。また手塚治虫や白土三平の漫画の単行本はだいたい読んだ。しかしながら働くようになってから,いつしか漫画は読まなくなった。ときどき漫画を手にする機会もあるが,絵がごちゃごちゃしていて,読んでも疲れてしまう。現在では,司馬遼太郎や新田次郎の歴史小説を読んでいる方がずっと楽だし,おもしろい。
 また大学生のころは,音楽を聴くといっても,いわゆるポップス系の曲が中心だったが,年をとるとともに,クラシックを聴くことが多くなってきた。最近では,年に数回は演奏会にも行くようになってきた。そういえばクラシックの演奏会では年配の方が圧倒的に多い。
 昔,背広を着た若いサラリーマンが電車で漫画週刊誌を読んでいることに憂慮していた(激怒していた?)NHKのアナウンサーがいたが,自分の経験からするといずれ好みは変化していくから,心配することは何もないと思う。余談だが,やり玉に挙げられることが多い,若者のいわゆるネットへの書き込みにも,まともな意見がたくさんある。したり顔でどこかで聞いたようなことしか言わないテレビのワイドショーのコメンテーターの意見より,はるかに自分の頭で考えた意見がたくさんある。またお笑いの天才としか思えない書き込みもたくさんある。
それはさておき,いろいろな文化は,それを主に支える年齢層があるのだろうと思う(もちろんおおざっぱなくくりにすぎず,いくらでも例外はあると思うが)。漫画,アニメ,歴史小説,SF小説,純文学,音楽,スポーツなど,それぞれのジャンルでそれぞれの分野の文化が,どのような年齢層によって主に支えられているのかを考えてみるのも,世代間の理解の一助になるのかもしれない。
現代子育て事情雑感(三浦 守孝)
2011-03-11
現代子育て事情雑感
−PTA、塾、習い事における親の熱心さと子の自己決定権について−
 
三浦 守孝
 
 「わんぱくでもいい。たくましく育って欲しい。」といった丸○?ハムのキャッチフレーズにもあったように、昭和30年代生まれの自分にとって小学生時代は、元気であることが子どもに一番求められていた。小学生の時は、毎日、学校が終わると学校のグランドで野球か近くの神社で様々な外遊びやけんかをして、室内ゲームなど正月くらいしかやらなかったものである。
 近頃の子どもたちは、街で見かけるとニンテンドーのDSを肌身離さず(中学以上は携帯電話)、時間があればゲームを楽しみ、塾や習い事のため公園やグランドで日が暮れるまで外遊びをしている子どもはあまり見かけなくなった感じがする。かくいう自分の次男も小学3年生だが、そろばん、英会話、学研とお勉強系習い事と水泳、サッカー、乗馬、クラシックバレーというスポーツ系習い事で、毎日授業で言えば2コマの習い事を行う生活習慣である。
 我々同世代の小さい頃は、外遊びにしろ塾に通うにしろ、親の送り迎えなどなく、自分で単独で行動していたが、今は、保護者の車での送迎付きというのが大体の家庭事情である(確かに、現代社会や交通事情では危険との隣り合わせであり無理がないかもしれないが)。
 自分が小学校のPTA会長をやったときも夫婦で有給休暇を取ったりして授業参観や学校行事のほとんどに参加する親の熱心さが目に付く状況である。サッカーや野球等、スポーツ少年団においても、親が審判の資格を取ったり、送迎のため大型免許を取ったり試合で保護者会で炊き出しをしたり、一見「親バカ」というか、教育熱心度はすごいなと自分の極めて消極的な態度と比較して、ただただ関心するばかりである。
 親のエゴなのか、はたまた教育熱心なのか、子どもに対する思い入れなのか分からないが、子どもたちは少子化の影響も受け、大切すぎるほど大切に扱われているのである(過保護ともいえる)。
 子どもたちの自己決定権の観点から、本当に自分のやりたい事をやっているのか、本当のところ親から塾や習い事を嫌々ながら通わされているという認識があるのかは分からないが、きっかけは親の過度の期待、親バカの発想からでもあるにしても無限の可能性のある子どもたちに何か1つでも人よりも抜きん出た能力があれば能力を伸ばしてやりたいというのが親の本音なのかもしれない。
 うちの次男の場合、クラシックバレーなどはワイフが男の子2人で女の子が欲しかったから、せめてバレーくらいさせて発表会で楽しもうなんていう親のエゴがあったわけである。但し、次男はバレエ団でも希少価値の男の子でチヤホヤ大切に扱われ、気分良く半分おだてられながらも発表会を目指してレッスンを楽しんでいる。
 乗馬に至っては、次男が家で猫か犬など動物を飼いたいということで申し入れがあり、親としてネコ喫茶に通わせる位では可哀相だから知恵を絞り、乗馬(週に1回30分だけ乗馬して残り2時間は馬の世話や餌やり、馬舎の糞尿の掃除が日課である)をやらせ動物とのふれあいを実施しているのだが、これとても家で動物を飼うのは世話が大変という親の勝手な判断に基づくものである。
 フィギュアスケートのように年間200万円とか大金をかけて子どもをオリンピック選手に育てようとする親や芸能界のステージママとは全く、次元が異なるけれど、親が子どもをおだてながら子どもが何か1つでもやる気になって能力を発揮してくれることを期待するのは親バカといわれるかもしれないが、無理からぬと思われる。
 都会と異なり、長野県においては小学校低学年の段階では本格的に塾通いという感じではないけれど(妻が東京の実家に戻り、離婚訴訟を提起され、夫側の訴訟代理人になった際、東京家庭裁判所裁判官から養育費の算定基準表の金額にプラスして小学生が塾に行くのは当たり前だからと塾代3万円を当然にプラスしろと要求され、長野県に住む夫は非常に困惑しつつも和解に応じ、たという事例もあった。)親のブランド志向から有名校のお受験戦争や受験の低年齢化が進むのと同時に、習い事なども文化人、セレブなどという言葉に惑わされつつ、現代の親バカ度が進行している感じも否めないところである。
 現代社会は、子どもに限らず、大人の世界でもカルチャーや習い事やサロンなどが増え、心の豊かさを求める傾向もある。
 この点、自分はワイフからも子どもからも「お父さんの趣味はゴルフしかないのか」と揶揄され、文化教養的な習い事を勧められつつ、日頃の弁護士業務に追いやられ心のゆとりも時間的なゆとりもない自分は、大いに反省すべき毎日である。
 ワイフは、40歳になり小笠原流礼法の師範をとなり、テーブルコーディネートやフラワーアレンジメントで教室を主宰し、ホームページまで立ち上げ、自分磨きと称して頑張っているのは、羨ましい限りである。
 現代において、親が子どもに真に望むことは、昔の丸○?ハムのキャッチコピーのようなものでなく、いろいろな夢や期待をかけ、子どもが自己決定権の中で個性を伸ばし能力を発揮してくれることを望み(現実に親の期待に応えてくれる確率は極めて低いのかもしれないが。)親として日々頑張っているのかもしれない。
 近年において、PTAでも家庭においても親が子に威厳を示すというより兄弟姉妹化しているなどと親子関係について指摘を受けているが、親は自分の引いたレールに子どもが乗ってくれるように手を変え品を代え、好きなゲームソフト等を買い与えたりおだてたり(飴と鞭対策)して、習い事や塾通いを推奨し過保護的に扱う態度が問題なのかもしれない。
 核家族化、少子化の影響を受けて(子どもを怒らない親が増えているなど悪しき現象なのかもしれない。)自分のことはどうかと言えば、高校一年の愚息の長男には同じ道でロースクールに入り、法曹界を目指して欲しいなどというほのかな希望は抱いており、小さい頃からサブミナル効果を植えつけてきているが、果たして期待に応えてくれるかは大いに???である。
 しつけ、家庭での徳育とか、学校教育における家庭生活の存在は極めて重要視されているが、親の心子知らずではないが、現実はなかなかうまくいかず、せめて自分の能力を伸ばし、健やかに発達し、どんな社会環境でもたくましく乗り切れる人間力を備えた子に育って欲しいということを親として願うばかりである。
 自分自身も家族に「ゴルフ親父」と呼ばれないように、何とか時間を見つけて自分にあった趣味やカルチャーを見つけたいと心の中では常に考えているのだが・・・
長野県弁護士会
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