ところで,司法試験の他にも,私は,中学受験,高校受験,大学受験でも合格発表を体験していますが,それぞれに,良きにつけ,悪しきにつけ,思い出があります。
東京の私立中学のような苛烈な試験ではなく,それ専用の勉強など一切したことのない,非常に牧歌的な受験でしたが,私は一応中学受験も経験しています。これは,親がくじ引きを引いて,そのくじで合否が決まるという仕組みでしたので,合格発表は親からもたらされました。自分の「引き」で子の合否が決まるということで,親としては非常なプレッシャーがあったようで,くじを引き終えた親が,非常に興奮して「合格したぞ!」と言って帰ってきたことを鮮明に覚えています。そんな親の気持ちなど子は知らず,という感じで,私自身は「へえ〜,よかった,よかった。」程度の割と冷めた感覚でしたが,このときの親の感覚は今はものすごくよく分かります。
高校受験の合格発表は,テレビで見ました。長野県は高校入試に対する県民一般の関心が極めて高いこともあると思うのですが,当時は,「高校入試合格発表速報」とかいう番組を,確か長野放送で放映しており,プライバシー保護に神経質な今日ではちょっと考えがたいのですが,名前が書いてある合格者名簿をテレビで流していました(当日の夕刊でも名簿がそのまま出ていました)。高校入試では,当時の自分の力を出し切れなかったという感じがあり,不合格ではないかと本気で思っていたので,高校の掲示板に合格発表を見に行く勇気がなく,テレビでお茶を濁したのです。このときは,自分の名前が目に入った瞬間「ああ,よかった。」というほっとした感覚でした。その日の午後,合格した人は卒業したばかりの中学のクラスに集合となっていた(当時は中学の卒業式の翌日が高校合格発表でした)ので登校したのですが,そのときにクラスメートと対面してお互い「よかったなあ。」と話して握手をしたときに改めて喜びが湧いてきたという記憶です。
大学入試は,前にもコラムに書いたように,私は2浪しているのですが,2浪目は11の学部・学科を受験し,発表の形態も,郵送あり,掲示板あり,電報ありと様々でした。一番最初の合格発表は郵便でしたが,ここで合格していることがわかったときは,今まで全ての大学入試で落ち続けてきていて「本当は合格者なんていないんでは?」などと自分の力不足を棚に上げて勝手に疑心暗鬼になっていた私は,「大学入試でも合格者は本当にいるんだな。」と実感し,今まで勝手に失っていた大学入試に対する信頼が回復されたような感じで,本当に嬉しかったことを覚えています。
実際に通うことになった学部の合格発表は,同じ大学の別の学部の合格発表と同じ日に行われ,この発表は両学部とも大学の掲示板まで実際に見に行きました。最初にどちらから見ようか迷ったのですが,志望順位も低い一方で,受験後の感覚としてもそんなに手応えがあった訳ではないA学部の合格発表から見に行くことにしました。そこの発表は番号が載っているだけで名前は載っておらず,心の中で「○○○○番,○○○○番・・・・・・」と自分の受験番号を心の中で唱えながら番号を追っていくと,果たして,その番号が目に入りました。その時は,「嬉しい」とか「やった!」という言葉が浮かぶ前に,体が勝手にガッツポーズをしていたのを覚えています。まさに反射的という感じでした。その結果を受けて,志望順位も高く,手応えもA学部より遙かに高かったB学部の発表を意気揚々と見に行きました。当然受かっているでしょ,という感じで「21215番,21215番・・・」とやはり自分の受験番号を心の中で唱えながら番号を追っていくと,「21255番」はあったのですが,「21215番」はありませんでした。何かの間違いではないかと考え,掲示板を見直しましたが,やはり「21215番」はありませんでした。
帰り道は,当局が21215番と書くべきところを誤って21255番と書いてしまったのではないかなどと,腑に落ちないという感じで帰路に就き,A学部の合格という嬉しいはずの結果などすっかり色あせて,憮然とした(ここでの「憮然」は,最近誤用されている方の意味と,本来的な意味両方があてはまります)感覚でした。帰ってから,家族には「B学部は駄目だったけど,A学部は受かっていた。」と電話(当時は携帯電話などありませんでした。)で報告したのですが,家族は非常に喜んでくれて,B学部の不合格など全く問題ないという感じでしたので,その反応に救われた感じがしました。
それから1週間後くらいに第1志望校の合格発表があり,これも現場まで見に行きましたが,この学校はアイウエオ順で受験番号が決まっていて,「青木」である私は最初の方の番号だったので,あっさり名前がないことが判明し,あっさりした気持ちで戻ってきたという記憶ですが,合格発表のインパクトとしてはこれまでお話しした3つの方が思い出に残っています。
こうして,私は先述したA学部に入学し,卒業もしたのですが,こういう合格発表の思い出のせいか,A学部については,自分を拾ってくれた学部という感じで感謝する一方で,B学部についてはいろいろ感じるところがあります。今の職業的にはB学部の方が縁があり,「寄付のお願い」が来たりしますが,「そう簡単には応じられませんね。」と言う感じで冷淡な対応に終始している今日この頃です。まあ,私などが寄付しなくても痛くもかゆくもないでしょうし,そもそもB学部に合格していたとしてもおいそれと寄付に応じるかは怪しいですので,「これ幸い」という感じのエクスキューズに過ぎないのですが・・・・・。
パールがきて1年くらい経った頃の初夏の早朝に、パールを連れて家の裏山の小道に散歩に行った。
やっと軽自動車が通れるくらいの幅の、かつては砂利道だったものの砂利のほとんどは雨で流されて雑草がはびこりだしたような小道で、両側には、すでにクマ笹の新芽がびっしりと生えそろい、カラ松とクルミの木が林立している。カラ松は、ちょうど芽吹きが終わったところで、その新芽とクマ笹の若草色の間にカラ松の樹皮のこげ茶色が見える。
ふだんはきちんとリードを付けているのだが、そのときは、まわりに何かいる気配がなかったので、油断してパールのリードをはずし、ヒールをさせ、山の静けさとひんやりした感覚を楽しみながら、のんびりと歩いていた。遠くでホトトギスが飛びながら鳴いていた。
それは私にとって失敗だったが、今思えば、パールにとってチャンスはこの1回だけだった。
突然、ドドッ、ドドッという重い足音がして、中型でごげ茶色のメスのニホンジカが3頭、右の山側からさっと飛び出してきて、私たちから5メートルくらい前方の小道を横切って、左の谷側に走って降りていった。
私もパールも目を見開いて5秒ほど凍り付いてじっとしていたが、すぐにパールが激しく喜びだして尻尾を振り、シカたちの後を追って全速力で走っていってしまった。私はあわてて、ストップだのステイだのノーだのコラッだのパールだのオイデだのカムだの、いろいろと叫んだが、パールは興奮すると他人の言うことが耳に入らなくなってしまうたちだから、当然私の叫びは耳に入っていない。
すぐにシカたちの姿は見えなくなり、それを追いかけているパールも見えなくなってしまった。シカたちとパールがクマ笹をかき分けるザワザワという音も、しばらくしてまったく聞こえなくなり、あたりは静かな小道に戻った。
しばらく途方に暮れていると、聞こえなくなっていたザワザワという音が再び始まり、今度は左側からシカたちが姿を現し、私の10メートルくらい前方を横切って、右側に走っていった。すると、その5メートル後方を、パールが、嬉々とした表情で走ってついてきて、そのままシカたちに続いて右側に走っていった。背の高いクマ笹のなかをピョンピョン飛び跳ねながら走っているので、まるで緑色の波立つ海を泳ぐ黒いイルカのようだ。
そのうち、シカたちもパールも見えなくなり、再びザワザワも聞こえなくなった。パールもシカたちも鳴き声ひとつあげない。
パールがシカに飛びかかり、シカの後ろ足で激しく蹴られて致命傷を負う場面を想像した。そうではなくても、迷子になって野イバラにからまって動けなくなったパールを想像した。どちらも汗が出てくる。
泣きそうになっていると、右側から再びザワザワの音が聞こえてきて、すぐにシカたちが現れ、今度は私の10メートルくらい後方を谷側に横切っていった。そして、またもや、その5メートル後方を、パールが嬉々とした表情で、飛び跳ねながら、ついて走って行く。
パールとシカたちとの距離はさっきから縮まっても離れてもいない。
ワオ。
やっと気が付いた。
なんと。シカたちは、パールに追いつかれるか追いつかれないかの速さで、わざとゆっくり走っている。パールはシカに遊んでもらっているのか。そもそもシカは遊ぶのか。
そして、またしても、3頭と1頭の姿が消えて、音も聞こえなくなった。
それからは何も起きなくなってしまった。
5分くらい耳を澄ましていて何も聞こえず、迷子になったパールを探すのは大変だな、と思っていたとき、トボトボとパールだけが現れて、最初にクマ笹のなかに入っていった地点に戻ってきた。きっと、シカたちのほうで遊びに飽きて、本気で走っていってしまったのだろう。
それまでに私はパールが走り出した出発点から30メートルほど歩き回っていたらしく、パールを呼ぶと、その30メートルを疾走して戻ってきたが、パールは私が初めて見る生き生きとした目をしていて、口角が上がって笑っているようだ。
私は、パールを抱きしめ、リードを付け、理解しそうにはないとは思ったが今後は勝手にシカと遊んではならないことをきっぱりと告げ、その日の散歩を続けた。
そんなことがあってからは、犬にとって野生のシカに遊んでもらうのはとても貴重な経験だなと思ったりするものの、パールにはしっかりとリードを付け、周囲の気配に注意しながら散歩をするようになった。
今でも、月に少なくとも2、3回はシカと出会うことがあるが、そんなときパールは、首を伸ばし、鼻をヒクヒクさせて追いかけようとしてから(もちろん私の方はパールを必死で押さえていなければならないが)、シカが立ち去ったあとで、シカがいたあたりのにおいを心ゆくまで楽しんでいる。
そんなとき、彼女の網膜と鼻孔の奥にはあのときの記憶がよみがえっていて、夜にはシカと遊ぶ夢をみているに違いない。
例えば,かなり昔の話ですが,ある事件(甲事件とします)を受けて,しばらくすると全く別の事件の相談があり,話が進むと,実はその方の別れた旦那さんの親族が甲事件の相手方だったというようなことがありました。
事件としては全く関係が無いため,相談者の方もその当時は全く関係がないため,そのことについて話をすることはありませんが,ほぼ同じ時期に重なるというのも不思議なものだなあと感じます。
ある時は,元同僚のA弁護士と食堂に一緒に入って話をしていると,A弁護士の隣の人が先ほどからこちらを見ているので,私もその人を見ると,何と研修所の同じクラスの人でした。
さらに,その数か月後,ある事件で依頼者が勤務していた会社の顧問弁護士が私から事件に関する話を聞きたいという話があり,お会いしてみると,その顧問弁護士は満面の笑みでやけに親しげに話しかけてきます。はて,どこかで会ったっけと思うと,その研修所の同じクラスの人と一緒に食事をしていた方でした。つまり,そのとき私の隣に座っていた方でした。
つい先日も,東京の品川で,元同僚のA弁護士と一緒に道に迷っているときでした。
サラリーマン風の男性2人が向こうから歩いてくるので,「この辺に〜という喫茶店はありませんか。」と道を尋ねると,突然その人が,私はあなたの友達かもしれませんと言うので,「???」となっていると,大学のクラスの同級生でした。広い東京で偶然道を尋ねた相手が大学のクラスの同級生とは。
お互いに名前は忘れていましたが,思わぬ偶然に大笑いをしながら,名刺交換をして別れました。
本当に偶然ってあるんだなあとA弁護士と話をしていた帰りの新幹線では,私とA弁護士の元同僚であるI弁護士がぐうぐう寝ていました。おまけのような偶然にこれまた大爆笑。
偶然は単なる偶然ですが,たまに生活に刺激を与えてくれるスパイスみたいで,おもしろいものですね。
わたしのいちばん
織 英子(おり えいこ)
弁護士の登場する映画が好きです。活躍しなくてもかまいません。世間の人が弁護士に何を期待しているのか知ることができ、初心に帰ることができます。
比較的有名な映画をいくつか紹介します(ネタばれあり)。
1 チェンジ・リング
(あらすじ)
1928年のロサンゼルス。クリスティンの9歳の息子、ウォルターが姿を消す。5ヵ月後、警察によって保護され再会した息子は全くの別人だった。警察にそのことを主張すると、彼女は「精神異常者」として精神病院に収容されてしまう。支援者らに助けだされたクリスティンは息子の行方を探して、腐敗した警察組織を相手に不屈の戦いを続ける。
ラスト、クリスティンは背筋の凍る犯罪の被害者となったウォルターの最後を突き止め、勇気ある息子の行動を知る。
(好きなシーン)
弁護士が令状を手に精神病院に乗り込み「君たちは私の依頼者に何をしたのだ!」と叫んでクリスティンの身柄を解放させる場面。その後、助けだされたクリスティンに弁護士が「あなたほど力強く真実を求め、行動する人を私は知りません」と語り、代理人に就任する場面。
2 ゆれる
(あらすじ)
東京で売れっ子カメラマンとして活躍する弟・猛と地元のガソリンスタンドで働く兄・稔は、幼馴染の智恵子と3人でドライブへ行き、吊り橋のかかった渓谷へ遊びに行くが、その吊り橋から智恵子が転落して死亡する。その場に居合わせたのは兄・稔一人だけだった。その後の警察の取り調べに対し、殺人を自白し、逮捕された稔だが、猛は兄の無実を立証するため弁護士を依頼した。
(印象に残ったシーン)
裁判が進むにつれ兄をかばう猛の心はゆれ、そして証言台に立ち最後に選択した行為は、兄を殺人犯と断定する証言だった。虚偽の証言をする弟を見る兄の達観したような安堵の表情。無実の罪で服役し、出所した後の兄の歩き方、背中が印象に残る。
3 ヒマラヤ杉に降る雪
(あらすじ)
1954年、ワシントン州サン・ピエドロ島。漁師のカールが水死体で発見され、状況証拠から日系ニ世のカズオ・ミヤモトが第一級殺人の容疑で逮捕される。やがて裁判が始まり、カズオは必死に無罪を訴えるが、陪審員の目には、カズオの顔は、過去の戦争で自分たちを苦しめた、憎い“日本人”としてしか写らなかった。日系人に対する差別と偏見が渦巻く法廷で、カズオは孤立していった。
ヒマラヤ杉にしんしんと雪が降る冷たさと対照的に法廷では熱気あるやりとりが続く。
ラスト、カズオの妻ハツエの昔の恋人だった地元新聞の記者イシュマエルが事件を追い続け、真実にたどり着く。
(好きなシーン)
露骨な人種差別主義者の検察官に対し、良心的アメリカ人である判事が法廷で行う訴訟指揮。また、老獪な白人弁護士が陪審員にアメリカの自由と正義について語りかける場面。
4 おまけ
弁護士が頼れるのは法と法技術だけです。権力と対峙するには、頼りない武器ですが、常に刃を研いでおきたいものです。
そこで、技術向上に役立つ一冊。
「最終弁論 歴史的裁判の勝訴を決めた説得術」(ランダムハウス講談社)
以 上
私は、イソ弁時代の6年間を東京で過ごしました。
私が所属していた東京弁護士会は、会員が非常に多かったため、当番弁護士(注:警察に逮捕された人やその家族などが、弁護士会に直接連絡するか、または警察や裁判所を通じて弁護士会に連絡すると、その日の当番の弁護士が面会に行くという制度です)は、通常、数か月に1度しか回ってきませんでした。しかし、私が勤務していた法律事務所は20名を超える先輩弁護士がおり、みな弁護士業務に弁護士会活動にと忙しかったため、「当番を交代して」という依頼が相次ぎ、人に頼まれると断れない性格の私は、自分がどんなに忙しくても受け入れてきました。その結果、頻繁に当番が回ってきて、多い時には3日連続で出動ということもありました。おかげで、東京都内のほとんどの警察署を制覇したのではないかと思います。
逮捕された方が外国人の場合には、弁護士会から当番弁護士の依頼が来る際に通訳さんの連絡先も教えてもらい、自分で連絡をとって、警察署で落ち合う時間などを確認することになります。ある時、2日連続で当番弁護士の出動があった日の通訳さん(男性)から、「昨夜は妻がお世話になりました」と挨拶されました。一体何のことかと尋ねてみると、前日に一緒に面会に行って頂いた通訳さんが奥様であったとのこと。そのご主人の通訳さんからは、「2日続けて夫婦でお世話になるなんて、先生は“当番”じゃなくて、“常勤“なんですね」と冗談を言われたこともありました。
当番弁護士の経験の中で一番印象に残っているのは、弁護士登録から半年ほど経った頃に要請のあった八丈島警察への出動です。八丈島も東京都内ですから、東京の弁護士会が担当するわけです。
担当日の午後3時過ぎ、弁護士会から連絡が入りました。電話で突然「先生、明日は空いていますか」と尋ねられ、手帳を見たところ何の予定も入っていなかったため「はい」と答えたところ、「明日、八丈島に行けますか」と聞かれました。そして、「今日の当番になっている方に順番で電話をかけているのですが、皆に断られました。先生はまだ新人なので後回しにしていましたが、最後の1人になってしまいました」と言われました。一瞬迷ったものの、頼まれたら断れない私は、思わず「行かせて頂きます」と答えたのです。電話を切った後、「八丈島にはどうやっていくのか?」とあたふたしていたところ、今度は、刑事弁護委員の先生から電話が来て、離島への当番弁護士の派遣は初めてなので、交通費の支給や法律扶助で受任した場合どうするのか等を議論中とのことでした。その結果、「安心して受任してきて下さい」との連絡が入り、八丈島行きが決まりました。
翌日、私は、生まれて初めて飛行機というものに乗りました。八丈島空港に着くなり、タクシーを拾って、八丈島警察署に向かいました。警察署に到着し、正面玄関から入ると、突然、警察官から「おー、遠いところから良く来たな」などと労われました。戸惑っていると、逮捕された方の彼女が、東京より更に遠方の地から来る予定であったらしく、まだ20代の若々しかった私はその彼女に間違われたようでした。私が「昨日連絡を入れた東京の弁護士です」と答えると、「本当に来たんですか?」と大騒ぎになりました。その際、今まで弁護士が面会に来たことはないとも聞かされました。
その後、逮捕された方と面会し、法律扶助を利用して受任することになりましたが、話を聞くと、彼は、執行猶予中に今回の傷害事件を起こしてしまったとのことで、心の底から後悔していました。「ガラス越しにいるこの人を何とか助けたい」という使命感とともに、他方で、イソ弁の身で何度も八丈島に来ることは不可能なので、今日で全て決着してやろうと決意しました。
その後、本当に遠方から到着した本物の“彼女”と接触し、彼女の運転する車で島内を周り、一緒に被害者を探し出し、その日のうちに示談を成立させました。示談金に関しては、被疑者の勤務先のオーナーに会い、逮捕後未払いになっている給料から支払って頂くことになりました。さらに、被疑者の住まいの大家さんとも会い、身元引受人になって頂きました。
事件としては、後日、被疑者が警視庁本庁に移送されてきたので、その後八丈島まで面会に行くことはありませんでしたが、意見書を作成し、郵送で取り交わした示談書と身元引受書等を携えて担当検察官のところに足を運びました。結果として、前刑の執行猶予が取り消されることもなく、事なきを得ました。
この八丈島への当番弁護士派遣は、新米弁護士だった私にとって、本当に貴重な体験となりました。余談ですが、八丈島に行く前には、島で新鮮な海の幸を食べようと考えていたのですが、結局、島で口にしたものは、最終便の搭乗前に空港で飲んだ「八丈牛乳」だけでした。
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