本文へ移動

中堅弁護士のエッセイ

「デュオ・クロムランク」(諏訪雅顕)
2011-04-25
「デュオ・クロムランク」
諏訪雅顕
 
 デュオ・クロムランク(DUO CROMMELYNCK)という夫妻のピアニストを知っているだろうか。
 偶々入手した大分芸術会館での室内楽コンサート(平成6年開催)におけるサイン色紙に、マルタ・アルゲリッチやミッシャ・マイスキーと共に、彼らのサインも併記されていて、私は初めてこのデュオのピアニストを知ることになった。しかしながら、彼らはこのコンサートの5ヶ月後に、共に生命を断つことになる。
 デュオ・クロムランクは、ベルギー人である夫パトリック・クロムランクと、その妻桑田妙子の四手の連弾を行うピアニストである。パトリックは1945年生まれ。ブリュッセル王位音楽院でステファン・アスケナーゼに学び、その後、モスクワ・チャイコフスキー音楽院、ウィーン国立アカデミーで学んだ。桑田妙子は1947年広島生まれ。桐朋学園で安川加寿子等に師事し、その後ウィーン国立アカデミーで学んだ。2人は、ウィーン国立アカデミー(ディーター・ウェーバンが2人の師)で知り合い、1974年頃から2人で連弾のピアノを始めるようになる。その活動は、ヨーロッパからアメリカに及び、有名なブラームスやドボルザークの連弾舞曲集はもとよりモーツァルト、シューベルト、そしてフランス近代といったデュオの録音を次々と発表するようになる。それだけでなくブラームスの1番・4番、ドボルザークの9番、チャイコスキーの6番等のシンフォニーのピアノ連弾版といった大曲も手中に収めていく。
 2人の演奏の特徴は、音の統合(均質)と純化にある。彼らは言う。「4手の場合は、2台と違って、お互いが張り合うのではなく、弦楽四重奏のように完全に解け合わなければならない」。4手の場合においても、2人のピアニストの個性がぶつかり合うことは多い。そういった演奏にエキサイトすることもあるが、彼らの場合は本当に一体そのもの。強弱もテンポの揺らし方もぴったり合っている。あたかも1人のピアニストが4本の手で弾いているかの錯覚に陥る程である。
 この純化と統合は極めて美しい音楽を作っている。夫婦の強い愛情や結び付きがあって、その一体性や連帯感が生まれていると思うが、デュオをするという音楽でのつながりが、より一層の統合や純化(まさに溶け込んで1つになること)をより高めているようにさえ思われる。2人が演奏する写真が沢山CDの解説に挿入されているが、妻妙子の方が常に夫パトリックに頭を傾けて寄り添うように弾いており、本当に微笑ましい。
 しかし、夫婦というものが余りに一体化しようとすると、逆に息苦しさが生じ、破綻に向かうのではないだろうか。何故なら、夫婦と言っても、本来は他人であり、人格も性格も思想も元々は全く異なるのだから。純化や統合をするということは結局は、自己の主張を押さえて妥協することに他ならないからである。
 この夫婦の間に何があったかは分からない。1994年7月、20年以上もデュオのピアノ演奏を磨き続けてきた2人に微妙な心のズレが生じ、夫パトリックがベルギーの自宅で自殺(その原因は夫婦関係の亀裂と言われているが)、これを発見した妻妙子も後を追うように自殺した。
 彼らの友人のプロデューサー福田稔氏に語った話の中に次のようなものがある。福田氏の「どうして子供を作らないの」という質問に対し、2人は「私たちはプロのアーティストで、お呼びがかかったら世界中どこにでも行かなければなりません。そのためには子供はいない方が良いのです。また、音楽学校の先生になれば、1つの場所に落ち着いて生活できるでしょう、と言ってくれる人もいますが、実収入があると音楽に対する真剣さが鈍るおそれがあるので、私たちはその道も選べません。でも、本当は2人とも子供は大好きなのですが…」。
 もし2人に子供がいれば、この純化された音楽はきっと微妙に破綻したかもしれない。何故なら、子育ては、夫婦の個性のぶつかり合いであり、互いに妥協などとは言っていられないからである。しかしながら、彼らがその純化を一旦壊してしまえば、きっと、今まで築き上げた演奏形式を抜け出し、更なる芸術性の極みにまで達したのではないかと思われる。生き抜いて、もっともっと素晴らしい音楽を聴かせて欲しかったと思うのである。
 彼らが最後に録音したのがシューベルトの演奏。ここで聞くロンド(D951)や幻想曲(D940)は、シューベルトが生涯最後の年に残した曲であり、そのメランコリックな中に流れて行く清らかさや温かさは、比類稀なものであるが、彼らの演奏も清らかさや優しさ(そして時折現れる逞しさ)は随一のものであり、深く深く心の中に入り込んでくる。シューベルトは魔物であり、幾多の演奏家たちを死の淵に引きずり込み、あるいは引きずりこもうとしてきたが(これは、フリードヒ・グルダの語りからも分かる)、結局この夫妻も死の底へ導いてしまった。
 本当は、音楽に多くの語りは必要ない。そこにある演奏にただ身を置いて、その美しさに共鳴するだけである。そして心は安定と平穏を獲得する。その中で、いつの間にか悲しみの深い底に連れて行かれるような音楽があることを忘れてしまう。彼らの演奏を聴くにつけ、涙が止まらなくなる(そういった感性を呼び戻される)音楽があることを改めて知るのである。
 
 
※ この原稿を書いた後に、東日本大震災があり、日々深刻となる甚大な被害の実情や人知を超えた原発の暴走を目の当たりにしてきました。日本は、大きな絶望の中に叩き込まれてしまった感じで、胸が締め付けられます。でも、音楽のもう一つの大きな力は、人々を連帯させ、そして限りない勇気を与えてくれることにあります(KANの「愛は勝つ」!!!)。指揮者の佐渡裕氏は言います。「3月11日 東日本を大きな地震と巨大な津波が襲ったその日、私は予定していたコンサートが急遽中止になりました。その夜、テレビに映し出される悲惨な光景を目の当たりにした時、ただ涙するだけで何もできない無力な自分に茫然としていました。しかし、世界各国の音楽の仲間たちから激励が届くにつれ、『音楽』の持つ偉大な力にあらためて気付きました。一人ひとりの声、一つひとつの音が、重なって、そしてつながっていく。今、音楽にできることを、心をこめて発信していきたいと思います。」 私自身も、無限の力を秘めた「音楽」が、少しでも、被災された大勢の方々の心の慰めになって欲しいと思います。
長野県弁護士会
〒380-0872
長野市妻科432番地
6
9
4
7
9
3
TOPへ戻る